光り輝き続けるために✨

うつからのキセキ☆

【サイテーと想う自分をサイテーと想ってた】

【サイテーと想う自分をサイテーと想ってた】

1か月くらい前だったか?

興味があってたまたま観た動画にひろゆき西村 博之)さんが

出演されていた。

報道番組(恐らく特番)だった。

その中で、ひろゆきさんは、

私たち視聴者が知りたい事、

他の出演者の話したい事(訴えたいであろうこと)、

を上手く引き出す質問をし、

「うんうん。うんうん。」と相手の話をよく聴く姿勢で、

好印象だった。

 

おはずかしながら、ひろゆきさんのことをよく存じあげなかったので、

ひろゆきってどんな方だろうとググってみた。

1度ググったり、その方が出演されている動画を観たりすると、

YouTubeのデフォルト画面にその方の動画がアップされてくることが多い。

ググった直後ならわかるのだが、

何故かここ最近、ひろゆきさんの動画がYouTubeのデフォルト画面に

アップされることが多かった。

GWで時間と気持ちにゆとりがあることもあり、

何となくその動画を再生してみた。

 

視聴者の質問や、悩み事、困りごとにひろゆきさんが答えるという動画。

最初に拝見した報道特番の印象とは違い、

単刀直入にばっさばっさ切る。

みたいな感じの受け答えで、

おもしろくて、ついつい次の動画、次の動画と、

ひろゆきさんの動画をたて続けにみてしまった(^^;)

 

相談者への回答に、

こういう考え方もあるんだ~、

そういうことも可能なんだ~、

経済ってそうやって回ってるんだ~など

様々な、気付きや学びを得ることができた中で、

自身が最も得られてよかったな~と想うことは、

人に対してサイテーと想う自分をサイテーと想ってた

自分に気付けたことと、

そんな自分に対して、

そこまで自分を責めなくて良いんじゃない?という、

自己受容が生まれたことだ。

 

そう思えたのも、ひろゆきさん。

動画の中で、

相談者の悩みの原因になっている人のことや、

世の中を見る中で「こういう人がいる」という説明をする時に、

「くそやろう」とか

「頭が悪い」とか

「無能なやつ」という言葉を頻繁に、普通に、

ごく当たり前な感じで使っている。

最初は、過激な事言うな~と想って観ていたが、

あまりに頻繁に使っているので、

こっちもだんだん慣れてきて、

なんか別に人に対して「くそやろう」とか「頭が悪い」って

想っていることって悪い事じゃないんだ~と想った。

 

ここで、はっとしたのである。

私は、人に対して「この人最低!!」とか「頭が悪い」

って想うことを悪いことだと想っていたということだ。

 

この人ほんと最低だよな!!

頭悪いんじゃない!!って

想ったとしても、

そう思ってしまった自分に嫌悪感、罪悪感を感じ、

その感情を味わいたくないから、

「そんなこと想っちゃいけない!」と自分の気持ちを抑圧したり、

「そうはいっても〇〇さんにはこんないい所もあるよね」と、

すぐに、気持ちをすり替えて、

「最低だよな!」「頭悪いんじゃない!」と

想う自分の気持ちを受け入れてこなかったんだな~と。

 

いったいいつから、相手のことを

「最低だよな!」「頭悪いんじゃない!」と想うことが悪い。

というビリーフを持っていたのだろう?

 

最低な行為だよな!

もっと頭使って行動したら!

と想う行為をする人は残念ながらいる。

(そういう自分も、自覚なく、頭の悪い行為をしてしまっていることもあると想う💦

というか実際あって指摘されたこともある💦)

それに対して、自然に湧き上がってくる想いなんだから、

その想いに、ジャッジをしたり、

その想いを抱いた自分を責めたりするのってなんかバカバカしいな~と、

ひろゆきさんの爽快なコメントを観ると、

気持ちがかるーくなっていく。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年5月4日

【ありのままの自分から何故ズレたか?】

【ありのままの自分から何故ズレたか?】

78年前、ディズニーアニメ「アナと雪の女王」の挿入歌

レット・イット・ゴー ~ありのままで~ が流行した。

今、改めてその歌詞を拝見すると、

その通りだな~、本当にいい歌だな~と想う。

 しかし、当時の私は、

何故この歌が流行るのかがよくわからず、

時代に取り残された気分でいた。

そもそも「ありのままって何?」と、

「ありのままの自分」という意味がまったく理解できなかったのだ。

 

何故、「ありのままの自分」とう意味がわからなかったのか?

「ありのままの自分」から離れすぎていて、

ありのままの自分の姿を想像できなかったのかもしれない。

 

当時の私は、何故「ありのままの自分」からズレたのだろう?

要因の大きな一つに上がってくるのは、やはり、自己肯定感の低さ。

当時の自分は、無条件で自分を肯定することができなかった。

 

例えば、仕事ができる自分は肯定できるが、できない自分は肯定できない。

だから、仕事ができない自分を無意識に隠そうとしたり、

仕事ができるふうを装ったりしていた。

隠したり、装ったりすること自体、自分から離れていくし、

自分のキャパシティーを超えた努力をしたり、無理をすることで、

疲労が蓄積し、自分から離れていくということもあったと想う。

 

例えば、優しい自分は肯定できるが、意地悪な自分は肯定できない。

だから、自分は常に親切で、優しくなければならないという意識があり、

私の中には、他人に対して、意地悪だったり、嫉妬したり、批判したくなったり

する自分だって存在するのに、そういう自分の存在はいっさい見ようとせず、

優しい人、物分かりが良い人を演じていた。

演じているということは、本来の自分ではないということだ。

 

例えば、家事も育児もパート勤めも全て手を抜かずにこなせる自分は肯定できるが、

そうでない自分は肯定できない。

だから、時には、だらだらしたいな~。手を抜きたいな~。

と想っている自分もいるのに、そういう自分を無視して、

ちゃんとできる人を演じるから、自分と離れていく。

 

挙げればきりがないくらい、

隠したり、装ったり、演じたりしていた当時の自分。

 

当時の自分を振り返り、客観視すると、

そりゃ「本来の自分、ありのままの自分て何???」ってなるよね~。

と想う。

本当の自分からの離れ具合は、半端なかったとも想う。

しかし、当時の自分にはその自覚がなかった。

本来の自分からあまりに離れすぎると、

健康を害すどころか、

命の危険すらあるという重要なことにも気が付いていなかった。

 

幸い私は、精神科の先生に恵まれ、

薬は必要最小限に抑えてもらい、

カウンセリング治療に重点を置いてもらえたことも、

なんとか、本来の自分を繋ぎとめて置ける要因の一つではあったと想う。

 

しかし、現在の自分まで、

本来の自分を取り戻すことができた大きな要因は、

「学びの実践」が一番大きいと、実感している。

メンターをつけたり、メンターが開催する講座に参加したりして、

定期的に自分を振り返り、より幸せで豊かに生きるための、

物事の捉え方、考え方を学んだ。

そこから得た、

気付き、学び、アドバイス、フィードバックを

実践してきた。

その成果は大きい。

 

もし、「学び」にご興味があれば、HPご覧ください。

一緒に学ぶ人を募集しているので、よろしければ。

講座案内|一般社団法人 Mind Labo | 名古屋市 (self-management.or.jp)

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年5月3日

 

 

 

【楽しみ下手】

【楽しみ下手】

過去の自分を振り返ると

楽しみ下手だったな~とつくづく思う。

今も、決して楽しみ上手というわけではないが、

過去の自分に比べたら、かなり改善はされている。

 

過去の自分が楽しみ下手だったな~と想うポイントは大きく二つ。

①自分のやること1つ1つにジャッジをする

②今この瞬間に意識がない。

この2つだ。

 

①に関してだが、別ジャッジをすることが悪い

と言っているわけではない。

ただ、自分が

楽しいか楽しくないかとか、

心地よいか心地よくないか、

という感覚での判断なら良いと想う。

しかし、

ジャッジをする基準が、

周囲の目を気にするであったり、

母親とはこういうもんだよな~

と勝手に創った自分のセルフイメージであったり、

社会人とはこうあるべきという、

あまり合理的ではないビリーフであったり。

こういったことを基準にジャッジが入った時は、

たいてい、楽しめていないからだ。

例えば、周囲から「そんなことにお金使って!」と責められはしないか?

(実際言われたことはほとんどないと思うのだが💦)

母親に休日はない。家のこと子供のことをきちっとやるのが最優先だ。

働かざるもの食うべからず。

忍耐 = 美徳

などなど。

 

例えば、掃除をするという行為。

これ片付けたら、すっきりしそうだよな~

気持ちいいよな~と想ってやるのと、

ただ義務的に、やらなきゃ、やるべきと想ってやるのとでは、

同じ行為でも、味わう感情が全然違う。

昔の私は、体調が悪かったり、めちゃくちゃ疲れていて、

とても掃除をやるなんて言う状態でない時でも、

やらなきゃ!という義務感だけやっていた。

そういうときは、辛さしかなかった。

しかし、母親とは家事を完璧にするもの、

忍耐 = 美徳

この考え方があったために、

掃除をするのは良い、やらないのは悪いというジャッジがあった。

だから、無理してでもなんでもやるのは良くて、

理由はなんであれ、やらない自分は「悪い」となり、

もし仮に掃除をやらない選択をしたのであれば、

(よほどのことがない限りそういう選択はしなかったが)

自己否定に落ちていくという悪循環。

日常のありとあらゆることが、

良い行為、悪い行為というのが判断基準だったので、

いちいち、自分のやっていることが合っているか?

これで大丈夫か?と不安だったし、

同じ行為をするでも、ほとんど楽しめていなかったように想う。

 

今も、楽しみ下手だな~と感じることもまだある。

特に、お金を使うことへの不安?恐れ?罪悪感?のような、

どんよりした負の感情が湧いてくる。

こういうときはやはり、

これにお金使っても良い?悪い?という質問を

自分に投げかけている気がする。

そして買った後も、こんな自分は合っているか?大丈夫か?

というセルフトークをしている気がする。

そのセルフトークを繰り広げている時は、Enjoy感も半減💦

MindLabo、ジェラート、本

これ以外のことにお金を使う時に

これらの感情が湧き上がってくるのは自覚がある。

何十年も慣れ親しんできた感情だから、

焦らず徐々に徐々に手放していこうと想う。

実際、昔よりはだいぶ手放せてきているんだから・・・。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年5月2日

【骨折のメリットを考える】

【骨折のメリットを考える】

いつも行くお店の店員さんが足を怪我している。

 

「どうしたの~?!」

 

「ちょっと、段差を踏み外しただけだったんですけどね~。

当たり所が悪かったのか、骨折しちゃったんですよ~。

しかも、やったばっかで~。

まさか、骨折しているとは思わなくて、

ちょっと様子見てたんですけど、どんどん腫れていくから、

休日当番医探して受診したら骨折だってことで・・・」

 

「え~!!そりゃ大変じゃん!!

やったばっかってことは今痛いでしょ~?

私も、10年近く前に足を骨折したことあるからわかるよ~

めちゃくちゃ痛いよね~。」

 

「はい。今、だいぶ良いですけど、初日は痛すぎて眠れませんでした~」

 

「わかる、わかる~。私も初日は眠れなかったよ~。

恥ずかしいけど、痛すぎて、泣いてさ~。

大人になっても、

痛みで泣くことがあるんだってこと経験したくらいだもん。

でも、1カ月くらいで治るって言われなかった?」

 

「はい。まさしく、全治1か月って言われました~。」

 

「大丈夫、痛みは峠を越えると、もうほとんど感じないから・・・

生活の不便さも、最初のうちは大変だけど、

徐々にその不便さにも慣れていくから・・・」

 

私は、自分の過去の記憶を呼び起こし、

できるだけ、安心するような情報を伝えた。

 

そして、骨折のメリットを考える。

「今は、痛くて大変かもしれないけどさ~。

骨折したことで、日常の些細なことに感謝できるようになったよ~

当たり前のように、ご飯食べたり、家事やったり、働いてたりしてたけど、

当たり前じゃなかったんだな~って。

後、周囲の人の優しさにも触れることができたよ~。

うちの子供まだ小学生くらいだったけど、

例えば、ドア開けてくれたりとか、ちょっとしたことに気付いてやってくれたりさ~。

それまで以上に、自分のことは自分でやるようにしてくれたりさ~。

買い物に行くと、お店の方が親切にしてくださったりさ~。

骨折したことで、いっぱい感謝が生まれたよ~。」

 

「ほんとに。ここ数日でそれ感じます~。

経験しないとわからないことですよね。」

 

まだ、やったばっかで、痛みであるとか、

デメリットの方に意識が向きがちな時期なのに、

(少なくとも私はそうだった💦)

今の段階でそう言える店員さんがすごいとおもった。

 

「ほんと、良い事言うね~。

痛い経験ではあるけど、経験してみないとわからないこと、

気付けないことってあるよね。

私は、骨折した時、自分の不注意を悔やんだけど、

今度から気を付けようとう意識も出来たし、

感謝の気持ちも持てたし、

今こうして、骨折した人に共感できることにも繋がったし、

デメリットばかりじゃないよね。」

 

この会話を通して、

あーそうだよな~。

こうして、健康で何でもできる事って、

本当にありがたい事なんだよな~。

当たり前のことじゃないんだよな~。

人は支え合って生きているんだよな~。

あの時、しみじみ感じた感情がよみがえってくる。

 

店員さん、大切なこと想い出させてくれるきっかけをありがとう。

直ぐに良くなるからね。

今は大変かもしれないけど、

くれぐれもお大事にね。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年5月1日

 

【自己否定エピソード】

【自己否定エピソード】

自己否定で生きてきた40代前半までの自身を振り返り、

そのエピソードを語ることで、

反面教師的に世の中のお役に立てたらいいな~とふと思った。

 

当時は、自分が自己否定の塊だという自覚もなかったし、

(自己否定思考が自分の中で当たり前すぎて、

自己否定思考を自分が選んでいるということを認知していなかったし、

ネガティブ思考の性格だから仕方ないと自分のことを諦めていた感覚)

自己否定が、自分の人生と周囲にどれだけの悪影響を与えていたか?

ということもわかっていなかった。

 

うつ病も治り、自己肯定感を持てるようになった今だからこそ、

当時の自分客観視し、自分の至らなかった点が観えてくる。

 

その一例をご紹介しようと想う。

 

私は、料理が好きではなく、

料理があまり上手にできないことにコンプレックスを持っていた。

それに、気が付き、受容できたのはわりと最近だ。

 

料理嫌い、料理コンプレックスがある自分を、

受容できていなかった頃は、子供たちの子育て時期と重なる。

私の中の、女性、母親の理想は、料理ができることだ。

上手いに越したことはないが、

めちゃくちゃ料理上手ではなかったとしても、

・最低限のスタンダードなもの(ハンバーグ、カレー、グラタンなど)は

 作ることができる。

・毎日3食(給食以外)きちんと自分の手で創ったものを提供できる

・栄養のバランスを考えたものを提供できる

(朝食:主食+野菜4種類以上+タンパク質2種類以上)

(夕食:主食+野菜5種類以上+タンパク質3種類以上)

以上のことを、自分に課していた。

プラスして、自分に厳しい性格だったので、

自分が疲れているから、さぼりたいから、

という理由で手を抜いたり、外食に行ったりすることは、一切なかった。

下の子が中学に上がるまで、

カップラーメンを食べさせたことはほとんどない。

そんな私だったのだが、

次男が中学になったタイミングで正社員になり、

入社当初は、時間にも気持ちにも余裕がなかった。

最初のうちはそれでも頑張って、子供たちの食事は作っていたのだが、

人にものを頼めない性格が少しづつ緩んでいたのもあり、

夕飯は同居の母に作ってもらうように自然となっていった。

 

先日、今一人暮らしをしている次男と、

食事についての話題となった。

一人暮らしをしていると、作られた食事が、

頼まなくても食卓に並んでいたことのありがたみが

わかったようだった。

しかし、話に上がってくるのは、おばあちゃんが作ってくれた食事のことばかり。

次男が高校生の頃は、

朝寝坊して食べない、

昼食も友達との付き合いを優先して隠れて捨てている

等の理由から、かなり手を抜いていたのは確かだ。

しかしそうはいっても、中学1~2年生くらいまでは、

本当に頑張って上記のことを自分に課して作っていたのに・・・。

その記憶はほとんど残っていないらしい。

 

何故か?

おばあちゃんとの違いは?

 

おばあちゃんは、とにかく、

美味しものを食べさせたい、

喜んでもらいたい、

そういうスタンスで料理を作っていた。

 

私はというと、

自分のコンプレックスを隠すため、

これをやっていれば誰からも文句は言われない、

ただ単に自分を満足させるための理由から

作っていた気持ちが大部分を占めていた。

この違いは、同じ料理を作るという行為をしていても、雲泥の差だ。

別に、疲れてるの我慢してまで完璧なもの作ってなんて、

誰からも頼まれていないし、

疲れて、イライラした食卓になるくらいなら、

外食で楽して、笑顔で食べたほうがよっぽど良い事もある。

 

一番の原因は、料理が嫌い、料理コンプレックスがある自分を

受容していなかったことにあったのではないかと想う。

料理が嫌い、料理が苦手と言うことを受容していれば、

料理嫌いなのに頑張って料理をしている自分をほめてあげることも出来ただろうし、

料理が上手くないならないなりに、

できることは無いかな?なにか手段はないかな?

という視点がもてたのではないか?

自分はやればこなせる、できるという変なプライドがあるがために、

こういう視点を持つことができなかったが、

上記のような質問を自分に投げかけていたら、

料理教室に行ってみるか~と当時なら想ったかもしれないし、

外食は週1回でも良いか~と自分に許可を出せていたかもしれないし、

子供を含めた他の家族に協力をしてもらうことも考えたかもしれない。

 

私の、自己満のために、

子供たちは良い迷惑だったんだろうな~と今更ながら想う💦

そして、自分自身も、幸せではなかった。

ただただ、料理嫌いな自分、料理がそれほど得意でない自分を、

受け入れてさえすれば良かったことなのに・・・。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年4月30日

 

 

【自分に許可を出す】

【自分に許可を出す】

7年ほど前、うつ病上がりだった頃の私が、

「自分を大事にする」と決心し、

そこから人生が好転して行ったことは、

このブログでも何度もお伝えしてきた。

「自分を大事にする」と決めると、

結果的に自己肯定感が上がることは、

自らが体験し、実感している。

自分の存在を消したい、

人との関わりは必要最小限にしたい、

そう思って生きてきた自分が、

こうして、このブログを書いていることが、

エビデンスとして伝わっていたらありがたい。

 

「自分を大事にする」と一言で言っても、

漠然としているな~。具体性がないな~。

と想われた方も多いかもしれない。

しかし、決めることで、

自分の言動に対し、「自分を大事にするとは?」という問いが生まれ、

自分を大事にすることに意識が向くようになるので、

とにもかくにもまずは、

「自分を大事にする」と決めることが、

重要であると自身は考える。

 

「自分を大事にする」と決めてしばらく過ごしてみての最初の感想は、

自分を大事にするって意外と大変。

というものだった。

なぜ、大変と想ったのか?

それまで、自分のやりたいことをやりたいと言わず、

家族を優先しなきゃとか、

自分にかけるお金がないとか、

子育て中の主婦に時間の余裕なんかないとか、

勝手に自分で決めつけて、

自分のやりたい気持ちを抑える又は、無視する癖がついていた。

その思考が染みついていたために、

自分の本当の気持ちに正直に行動することが

しようと想ってもなかなかできなかったのだ。

 

当初は、いちいち、いちいち、

自分のやることに許可を出すことが大変だった。

最初は、コンビニでカップのコーヒーを買って、

ちょいくつろぎタイムを作ることすら贅沢というレベルだった。

そんな私だったが、例えば、子供の洋服を買うついでではなく、

自分が欲しいものを得るためにショッピングに行くであるとか、

家族が美術館に興味がないからという理由で

行っていなかった美術館に一人で出かけてみるとか、

少しづつ、少しづつ、行動範囲や、

自分にかけるお金や時間を増やしてった。

そして、自分の望みを叶えるために、

スイス一人旅を決行できるようにまでなった。

今でも、自分についつい制限をかけてしまうことは多々あるが

(特にお金のブロックがある💦)

自分を大事にするというスタンスは一生変えないつもりだ。

何故なら自分を大事にすることが、

結果、周囲を大事にすることに繋がり、

それが、人としての本当の喜びになるんだということを、

体感、実感したからである。

 

私のように、

自分を大事にしてこなかった人にとって、

自分に許可を出すことって大変かもしれない。

でも、一つ自分に許可を出すと、

その分だけ自己肯定感が上がり、

自己肯定感が上がると、

また一つ自分に許可が出せるようになる。

この好循環にはまると、

人生って楽しいもんだな~、

いやめちゃくちゃ楽しいんだな~

と想えるようになってくる(^-^)

 

うつで毎日、イライラしているか落ち込んでいるかであった

あの当時からは、想像できなかった今である。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年4月29日

【計画通りにいってもいかなくても】

【計画通りにいってもいかなくても】

旅行を計画するのが好きだ。

行先を決め、行きたい場所やお店をリサーチし、

大まかなタイムスケジュールを組み、

日程表を作成する。

私は、これを自分では普通のこととして、

当たり前のようにやっていたが、

1つの趣味・特技のようなモノかもしれない。

と最近では自覚している。

 

何故計画を立てるのか?

理由は、大きく2つ。

旅先で路頭に迷うロスタイムを無くすのと、

旅する前から旅した気分になれ、

2度旅行を楽しめるからだ。

 

しかし、計画通りにいかないことも多々あるのが旅。

さまざまなハプニングもあったりする。

ふと、行先を変更したくなることもある。

その時、その時の出来事や、気持ちに対応しながら、

旅を進めていくのが本当に楽しい。

反対に、計画通りことが進んだときはどうか?

それはそれで爽快で気持ちいいし、やはり楽しい。

こんな完璧なまでのスケジュールを計画した自分に対し自画自賛だ(^-^)

 

どっちにしても、計画を立てる。

これは、私にとっての旅行の楽しみ方なのである。

 

3年前、限られた旅行費用と時間でスイスに行くため、

航空チケットから、現地の宿から、現地の鉄道チケットまで、

全て自分で手配するという、

完全海外1人旅を決行した時はハプニングの連続だった。

(着いた初日のホテルでトイレが壊れるであったり・・・)

しかし、その全てを楽しめた自分がいる。

あの時の経験は大きい。

中でも印象的なのは、

鉄道でのトラブルは比較的少ないされるスイスにおいて、

電車が止まるというアクシデントに遭遇したことだ。

スイスでの移動は全て電車だったのだが、

何かのトラブルで電車が止まり、

乗客全てが電車から降りるよう促されるというハプニングがあった。

車内アナウンスの言葉が全く理解できず、

何で、全員降ろされているのだろうか?

いったいここは、なんという場所なのか?

目的地からどれだけ離れているのだろうか?など、

状況とかがわからな過ぎて、不安になるを通り越して、

笑いが込み上げてくる自分がいた。

もう笑うしかないと想ったのであろうか?

あの状況の中で、めちゃくちゃ笑っている自分との出会いは新鮮で、

自分の中に、こんなに楽天的なところがあったんだ

ということに気付かされた印象的なハプニングだった。

 

さて、GWウィークが始まろうとしている。

遠くに住む家族と会う、読書、ジェラート、お仕事、

ボディーメンテナンス、

部屋のお掃除、ドライブ、個展を見に行く、車の修理。

やりたいことやらねばならないことは沢山(^-^)

時間を有意義に使うため、

やはりある程度は計画を立てようと想う。

旅行を計画するのと同じように、

計画すること自体も楽しみ、

計画通りにいってもいかなくても、

ハプニングなども含めてすべて楽しもう!!

 

3年前のスイス旅行のように!

場所は日本でも楽しめる。

何故なら、楽しんでいるのは、自分なのだから・・・。

自分は何処にいても変わらない存在なのだから・・・。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年4月28日