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うつからのキセキ☆

【罪悪感についての疑問】

【罪悪感についての疑問】

韓国ドラマ「梨泰院クラス」を全て見終わった。

負の想いがどういう現実を招くのか?

逆に、愛、利他、誠実さ、

こういったことを貫くことがどれだけ大切か?

見事にその結末を描いていた。

そして、人の一生のうちでいつそれに気付くことができるのか?

又は、気付かないまま、気付かない振りをしたまま生きるのか?

それもキーワードなのではないかと想う。

 

ドラマだから、ストーリーのスケールは大きいが、

同じようなことは、自分の身近に起きる小さい出来事の中にもある。

特に人とのコミュニケーションではその学びが多い。

「ドラマの中の話だから自分には関係ない」ではなく、

自分事として捉え、教訓にしていきたい。

 

ドラマを観終わって、

自分の中にいくつかの疑問が残っていることに気が付く。

その中の一つに罪悪感に関する疑問がある。

ドラマの中で、最後まで自分が罪を犯したこと、

自分の行為が悪いことだと認めない人がいた。

自分のことは棚に上げて、全てを周囲のせいにしていた。

世の中には、「罪悪感」を感じられない人がいるのだろうか?

私は今まで、人には当たり前に、罪の意識、罪悪感というものが

備わっているものだと想っていた。

それは当たり前ではないのだろうか?

 

仮に、「罪悪感がない」という人がいると仮定しよう。

そうすると、あの人は何であんな行為をするのだろう?

相手が嫌な想いになるのがわからないのか?

相手が傷つくというというのがわからないのか?

こういった疑問を幾度も人生の中で抱いてきたが、

その疑問をかなり払拭できるのではないか?

答えはYESだ。

罪悪感がないなら、ああゆう行為もできるよな~。

罪悪感がないから、あんなに人に迷惑をかけているのに、

悪びれた様子もないんだよな~。

と想える過去のできごとがよみがえってくる。

 

罪悪感がない、もしくは、極度に少ない人が

世の中に本当に居るのかどうか?私にはわからない。

しかし、少なくとも、「居る」と想っている方が、

自分にとってプラスにならない関係に、

しっかり境界線が引けるのではないだろうか?

 

自分が持っているものを相手が持っているとは限らない。

自分が持っているものを相手が同じだけ持っているとは限らない。

自分と相手は一緒と考える傾向性。

ここにも出ていたのかもしれない。

 

ここでふと昔の自分を想い出す。

うつがひどかった頃、

「楽しい」という感情を感じられない、

極度に少ない時期があった。

人が当たり前に持っている感情を、

何らかの事情で感じられないというケースは

自分だって経験しているではないか!!

 

人は、その人の過去も知らないし、

全ての顔も知らない。

自分に見せるその人の言動、姿勢、態度で、

自分が見せるその人への言動、姿勢、態度で、

その人との関係性が決まっていくのかもしれない。

これが、平野啓一郎さんが言う「分人化」

ということなのかもしれない。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年8月1日