【罪悪感についての疑問】
【罪悪感についての疑問】
韓国ドラマ「梨泰院クラス」を全て見終わった。
負の想いがどういう現実を招くのか?
逆に、愛、利他、誠実さ、
こういったことを貫くことがどれだけ大切か?
見事にその結末を描いていた。
そして、人の一生のうちでいつそれに気付くことができるのか?
又は、気付かないまま、気付かない振りをしたまま生きるのか?
それもキーワードなのではないかと想う。
ドラマだから、ストーリーのスケールは大きいが、
同じようなことは、自分の身近に起きる小さい出来事の中にもある。
特に人とのコミュニケーションではその学びが多い。
「ドラマの中の話だから自分には関係ない」ではなく、
自分事として捉え、教訓にしていきたい。
ドラマを観終わって、
自分の中にいくつかの疑問が残っていることに気が付く。
その中の一つに罪悪感に関する疑問がある。
ドラマの中で、最後まで自分が罪を犯したこと、
自分の行為が悪いことだと認めない人がいた。
自分のことは棚に上げて、全てを周囲のせいにしていた。
世の中には、「罪悪感」を感じられない人がいるのだろうか?
私は今まで、人には当たり前に、罪の意識、罪悪感というものが
備わっているものだと想っていた。
それは当たり前ではないのだろうか?
仮に、「罪悪感がない」という人がいると仮定しよう。
そうすると、あの人は何であんな行為をするのだろう?
相手が嫌な想いになるのがわからないのか?
相手が傷つくというというのがわからないのか?
こういった疑問を幾度も人生の中で抱いてきたが、
その疑問をかなり払拭できるのではないか?
答えはYESだ。
罪悪感がないなら、ああゆう行為もできるよな~。
罪悪感がないから、あんなに人に迷惑をかけているのに、
悪びれた様子もないんだよな~。
と想える過去のできごとがよみがえってくる。
罪悪感がない、もしくは、極度に少ない人が
世の中に本当に居るのかどうか?私にはわからない。
しかし、少なくとも、「居る」と想っている方が、
自分にとってプラスにならない関係に、
しっかり境界線が引けるのではないだろうか?
自分が持っているものを相手が持っているとは限らない。
自分が持っているものを相手が同じだけ持っているとは限らない。
自分と相手は一緒と考える傾向性。
ここにも出ていたのかもしれない。
ここでふと昔の自分を想い出す。
うつがひどかった頃、
「楽しい」という感情を感じられない、
極度に少ない時期があった。
人が当たり前に持っている感情を、
何らかの事情で感じられないというケースは
自分だって経験しているではないか!!
人は、その人の過去も知らないし、
全ての顔も知らない。
自分に見せるその人の言動、姿勢、態度で、
自分が見せるその人への言動、姿勢、態度で、
その人との関係性が決まっていくのかもしれない。
これが、平野啓一郎さんが言う「分人化」
ということなのかもしれない。
最後までお読みいただきありがとうございます。
2022年8月1日