【主体性について考える】
【主体性について考える】
2022年6月26日(日)
一般社団法人MindLabo主催のオンライン講座
「風の時代に必要なマインドセット2.0」に
受講者として参加した。
この講座に参加すると、
日常意識していないことを意識するきっかけとなるため、
新しい自分を発見することができる。
昨日のブログでは、
「感情」について考えるきっかけが与えられ、
ネガティブの塊だったような過去の自分が、
いつのまにか「喜び」にフォーカスする生き方になっていた。
と投稿した。
これは、2部構成で行われる講座の前半の内容からの気付き。
後半は、主体性をテーマとした講座だったのだが、
この講座の中でも改めて自分の主体性についても考えるきっかけとなった。
自身には主体性
(自分の意志・判断で行動しようとする態度。コトバンクより)
があるか?どうか?
私は、「人の言うことに従って生きていた方が楽」という
長いものには巻かれろ的生き方が長かったため、
主体性はないと想っていた。
しかし、昨年の「主体性」をテーマとした講座で、
例えば、部屋に花を飾ろうとして、どんな花にしようかな?
と何気に花を選んでいるその行為。
自分の意志で花を選んでいるのだから、それも主体性だと。
確かに!!
誰かからもらった花。又はサブスクで定期的に届けられる花であったら、
そこに自分の意志は含まれない。
しかし、明らかに、自分が飾りたいと思った花を飾っている。
些細なことかもしれないが、自分には主体性があるんだ!!
と嬉しくなったのを1年前のことだが今でも覚えている。
そう考えると、着る服を選ぶ、食べるものを選ぶなど、
身近な所で主体性は発揮されていると言えよう。
主体性があるか?ないか?という2択であれば、
答えはあるだ。
しかし、多角的、多面的に考えると、
主体性がある時、ない時、ある場面、ない場面、様々で、
一言で、主体性がある、ないといい切れないものなのだということに
改めて気付かされる。
どういう時に、自分の意志が強く動くのか?
自分の好きなこと、
自分の得意なこと、
自分の知識など強みが活かせること、
に関しては、主体的なことが多い。
逆に、人の意見に従う時もある。
例えば、
お医者さんなど、その分野での専門性が高い人。
その事柄に対して、自分より幅広い知識や経験を持っている人。
例えば、営業の仕事に関しては営業マンをされている人の考えに従うであるとか、
アウトドアのことに関しては、それを趣味としてやっている人に従うとか。
しかし、よーく考えると、
専門性の高い人、自分より幅広い知識や経験を持っている人に従う。
と決めているのは自分であり、それも主体的と言えば主体的と言えるのではないか?
と考える。
じゃあ、どういうことが主体的と言えないのか?
この人に従う!という意識、意志が自分にない事。
たとえ意識や意志がなかったとしても、
従った自分に責任を持たないことではないだろうか?
例えば、仕事を失敗したとしよう。
それを営業の〇〇さんの指示に従ったから自分には責任はない。
とはならないと想うし、
キャンプに行って、アウトドアが得意なAさんの言うとおりにやったのに、
キャンプが楽しくなかったとしても、それはAさんの責任ではない。
ということ。
そこをちゃんとわきまえ、従った自分に責任が持てるのであれば、
人の意見に従うということも主体的と言えるのではないだろうか?
ここでふと今まで腑に落としきれていなかった、
「傍観者にも責任はある」という考え方に納得感が得られる。
例えばクラスにいじめがあったとしよう。
自分は、加害者でも、被害者でもない。傍観者だ。
しかし、傍観者という立場を選択しているのは自分でもある。
だから、傍観者としての責任は発生する
という自覚は必要なのではないだろうか?
最後までお読みいただきありがとうございます。
2022年6月27日