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うつからのキセキ☆

【心がちくちくする場面】

【心がちくちくする場面】

ドラマや映画を観ていると、

胸の奥がちくちくする場面がある。

自分にとって、

後ろめたいとか、

後悔が残るな~とか、

そのシーンを観ると、

自分が受け入れられていない、

自分の負の部分が想い出されて、

胸の奥がちくちく痛んだり、

場合によってはいたたまれなくなるシーンがある。

それは大きく2つあるな~と色々なドラマを観ていてわかってきた。

 

1つ目は料理だ。

だいたい、どのドラマにも出てくる、

気持ちのこもったお料理のシーン、

お弁当を食べるシーン、

特にそのシーンが、親子だったりすると、

自分が子供たちにどれだけ気持ちのこもった料理、

おいしいっと想ってもらえる料理を

提供できていたか?を振り返り、

後悔で胸が痛くなる。

 

もう一つは仕事だ。

キャリアウーマンが、

実は陰でめちゃくちゃ勉強したり、

努力したりしているシーンを観ると、

これもやはり胸が痛くなる。

自身は、新卒で入った会社で試験機の設計をしていた。

自分なりに努力はしたが、

結局のところ、心身ともに体調を崩し、

その業務からは離れることとなった。

今の会社でも、何百種類もある自社製品の中から、

せめて自分と何らかの関わりがある製品だけでも覚えようと、

努力したのだが、覚える端から忘れてしまい、

そうこうしているうちに部署移動となった。

移動先では、製品と直接かかわる仕事が減ったので、

製品を覚えるのも中途半端のまま。

最初から努力していないわけではないのだが、

結果も出てないし、結局のところ中途半端な感じなのが、

努力が足りない ➡ だめなこととジャッジをする

➡ ダメな自分を受け入れられない、どころか責める。

となってしまう。

それが、ドラマで特にキャリアウーマンが努力している

シーンを観ていると自分と比較してしまい、

いてもたってもいられなくなるのだ。

 

自身はどんな自分も受け入れると決めた。

だから、この胸のちくちくも自己受容のチャンスと捉える。

今は受け入れられていないが、

自分が受け入れられない負の部分の存在を

知れただけでもよかったではないか!!

 

自身がまず受け入れなけらばならないのは、

自身は努力家ではないということではないだろうか?

努力家でも頑張り屋でもない、

どちらかと言えば怠け者寄りの人間なのだと。

そこを受け入れたうえで、

じゃあどうするか?

ということを考えないから苦しいのではないだろうか?

自身は、自身のことを、

努力家、頑張り屋だと想ってきた。

そう在りたいとも思っている。

何故、自分自身のことを努力家、頑張り屋だと想っていたのだろう?

そうあることが良い事だと想っていたのだろう?

 

それは、小学校1年生の記憶までさかのぼる。

自身が小学校1年生の時に鮮明に覚えている記憶がある。

小学校1年生の時、国語で漢字を習い始めたころ、

毎日の宿題に漢字の書き取りが出ていた。

私は、勘違いしていて、毎日1ページやればよかったのを、

今まで覚えた漢字を全て練習しなければならないと想っていた。

例えばそれまでに習った漢字が20個あったとしたら、

まずは20行漢字練習をして、その日に5個新しい漢字を習ったなら、

プラス5行漢字練習をして、次の日は、それまで習った25行漢字練習をして、

その日に習った新しい漢字プラスしてというふうに、

累計していた。

だから、数か月後には、6ページぐらい漢字練習をしていた。

小学1年生なので、累計はエンドレスだということに気が付かなかったのである。

それを先生は皆の前でめちゃくちゃほめてくださった。

私はその時自分が初めて自分が勘違いしていたことに気が付いたのだが、

先生は私が何故1ページでよい所、2ページ3ページ4ページと、

増やしていったかの理由まで知らなかったので、

私のことを頑張り屋さんだとみんなの前で誉めたのだ。

めちゃくちゃうれしかったのを覚えている。

それが私が、自分のことを頑張り屋さんで、

頑張り屋さんと言われることはうれしいことだ!

ということに目覚めたきっかけだったのかもしれない。

 

その後も、例えば母親から、

畑の草取りを頼まれ、汗だくでやっていたら、

こつこつやるタイプだと珍しく褒められたことがうれしかった経験や、

書道を小学1年生から中学3年生まで同じ書道塾で習ったことも、

努力家だと褒められたこと、

友達など周囲からも、真面目だね、とかよく言われていて、

それも悪い気はしていなかったので、

そういったことから、

自分のことを努力家、頑張り屋、と想っていて、

しかも、そうあることがうれしかったのだと想う。

 

しかし、それは案外そうじゃない、ということに気が付く。

もちろん、努力家、頑張り屋という面もあるのであろう。

しかし、全てにおいてそうかと言えばそうでないし、

どちらかと言えば、怠け者寄りな面の方が多い気がする。

 

そこをまずは受け入れようと想う。

受け入れたうえで、怠け者のままで進める部分と、

そうはいっても、そこもうちょっと努力しようよ!

という所を自分でも区別してやっていけたらな~と想う。

 

努力した後の爽快感や喜びもまたすばらしいということを知っているから・・・

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年8月22日