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うつからのキセキ☆

【寂しさ】

【寂しさ】

2人の息子がそれぞれ1人暮らしを始め、

1年以上が経過した。

息子達と一緒に生活しないことに慣れ、

日常生活に息子達がいない寂しさは感じなくなった。

長期連休の時など帰省して会い、

またそれぞれの場所へ戻って行ってしまう時の

言いようのない寂しさも、

だんだん慣れて行っていると想っていた。

しかしそれはどうも違っていたようだ。

 

このGWは二人とも、

用事があって帰省しないとのこと。

ただ、その中でも、

フリーな日が数日あるということなので、

私の方から会いに行くことにした。

 

5月2日次男に会いに行った。

せっかく会いに行くのだから、

できるだけ長い時間会っていたいと想い、

始発の高速バスで行き、朝から20時ぐらいまで、

まるまる1日を次男と2人だけで過ごした。

次男が中学生の頃、

1度だけ2人で名古屋に行ったことがあったが、

セミナー参加が目的だったので、

2人きりでまるまる1日を過ごすという経験は初めてだった。

 

19歳の次男。

私が行きたい!やりたい!という

リクエストに全て応えてくれた。

もちろん、そもそもの要望である、

できるだけ混んでいなさそうなところ、

移動時間をできるだけ削減したい

ということも加味しながらだ。

そして行った先でも、

「わ~。ここめっちゃ景色良いじゃん!!」

「わ~。ここめっちゃ清々しい空気だね。」

「わ~。ここのカフェおしゃれじゃない!!素敵!」

「わ~。これめっちゃおいしいね~。」

いちいち、いちいち子供のようにはしゃぎまくる私に、

穏やかに、

「そうだね~。」「きれいだね。」

「落ち着くね。」「おししいね~。」

と返してくれる息子。

 

今までの人生の中で、1番楽しかったんじゃないか?

と想えるくらい楽しい1日を過ごすとができた。

 

別れの時間が近づいてきてだんだん悲しくなってきた。

いつも、寂しい雰囲気で別れるから、

この「楽しかった~」という感情のままで別れたい。

そう思い、涙をこらえ、無理に笑顔を作っていた。

しかし、次男が、

「今日は、会いに来てくれてありがとう。」

とややかしこまり気味に、言ってくれた。

その言葉で、涙腺が緩み、

「泣きそうだから、行くね。」と

そそくさとバスの待合所を後にした。

 

帰りのバスの中では、

その日に行った場所、楽しかったことを思い返しながら帰った。

今思い返すと、「寂しさ」の度合いが半端ないことをうすうす察知し、

言いようのない寂しさを感じないようにするために、

楽しさばかりにフォーカスしたのではないかと、

あの時の自分のことを考える。

 

あの日から、1週間が経とうというのに、

あの日の思い出に浸っている自分がいる。

きっと「寂しさ」をしっかり、

感じさせてあげていないから、

しっかり泣いてあげてないからかな?とも思う。

ちょっと無理して、「寂しくない」って想おうとしていたのかな?

 

寂しさを感じるのは辛いけど、

心のどこかが満たされない感じもなんか気持ちいいものでもない。

ちゃんと寂しい気持ちを認めてあげよう。

 

しかし、何故家族、特に子供となると、

感情の度合いが強くなるのであろう?

「楽しい」という感情もそうだし、

「寂しい」という感情もそうだ。

 

そこでふと、

山本芳久著「世界は善に満ちている」

トマス・アクィナス哲学講義(新潮選書)

に書かれていたことを想い出す。

 

全ての感情の根源に愛がある。

 

こういうことなのかもしれない。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

2022年5月9日